2012年7月26日木曜日

anything can happen

"They were completely amazed, for they had not understood about the loaves; their hearts were hardened" (Mark 6:51b-52)
The disciples witnessed about 10,000 people get fed with just five loaves of bread, but still didn't understand. Many of us don't understand this account either, taking it as some little morality tale about sharing. But the feeding account has nothing to do with sharing and everything to do with who Christ is. In Christ, our preconceptions about "possible" and "impossible" are shattered. When the Kingdom comes, anything can happen. No sin is unforgivable. No chains are unremovable. No difficulty is insurmountable. The King can walk on water. Surely he can save us.

み国が到来すれば何事も成らざらん

「弟子たちは心の中で非常に驚いた。パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである。」(マルコ6:51b-52)
弟子たちはわずか5つのパンで約1万人が満腹したのを自分の目で見たのに、まだ分かっていなかった。今日でもその話を理解せず、「仲良く分かち合おう」というありふれた倫理物語として捉えてしまう人が多い。5つのパンの話は物を分けることとは全く関係なく、キリストが誰なのかということとは大いに関係がある。キリストによって「可能」と「不可能」という先入観は打ち砕かれる。み国が到来すれば何事も成らざらん。赦され得ない罪もない。外せないかせもない。乗り切れない困難もない。み国の王は湖の上を歩くことができる。わたしたちを救うことも当然できるのである。

2012年7月22日日曜日

近い者となったのである(エフェソ2:11-21)

聖霊降臨後第8主日(B年)
聖路加国際病院聖ルカ礼拝堂
2012年7月22日・10時30分 聖餐式・洗礼式


今日、これから洗礼式が行われることは、非常に嬉しく思う。さらに、洗礼式が行われる日に、今日のエフェソの信徒への手紙が読まれることになっているのも、心から神に感謝したいことである。神の計画としか思えない「偶然」だと思う。

僕のワイフのお父さんの本家は福島県の相馬市にある。海(松川浦)のすぐそばにある。

今まで、お盆休みに何回も訪問してきた。本家は古い長屋で、すべての障子を全開するとずっと広がる空間になる。真夏の風通しがいい。

来日した外人として初めてこの国の国民に受け入れてもらえていると実感したのは相馬でのこと。訪問すると初日、みんな何を言っているか全く理解できない。福島弁が強くて(ヒラメ→ヒラミ)。だけど、そのうち耳も慣れ、みんなと溶け込んで、楽しく過ごすのである。

夕方になると、親戚大勢が集まって夕食をする。女性たちは台所でせっせと働いて、男性は居間でせっせと焼酎を飲む(CCLemon割で)。そして順番にお風呂に入って、寝る。

本当に家族の一員として認められていると感じたのは、お風呂上りのおばあさんが堂々とズボンだけで僕もいるところに座って髪にブラシをかけ始めたときである。

残念ながら、3・11のときに家はかなりダメージを受けて、海辺も不安なので、本家はもはや存在しない。(グーグルマップで見たら空き地となっている。)
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本家がない。まさにこの世におけるわたしたちの悲しい状態である。キリストなしでは。

これがパウロが言っていることである。この世では、わたしたち人間は本当の本家がない、ということ。さらに正確な表現をすれば、アダムとエバの罪のせいで園にいられなくなってしまったと同じように、わたしたち人間の罪によって神の平安に留まることができない状態にあるのだ、ということ。

パウロはエフェソという町(現在のトルコの西海岸にある)に住んでいるクリスチャンにこの手紙を書いている。イエスをメシアとして受け入れたユダヤ人もいるかも知れないけれど、異邦人(ユダヤ人でない人)の方が多いコミュニティである。

(初期教会では、異邦人がクリスチャンに改宗するとき、男性が割礼を受けるべきかどうかという論争があった。モーセのときから、割礼が神の民に属しているというユダヤ人にとって最も重要なしるしなのである。熱心なユダヤ人としてモーセの律法をきちんと守るべきだと強く思っていたパウロは、イエスに出会ってから心ががらっと変わり、割礼ではなくてむしろ洗礼が神の民に属しているしるしとなる立場を取った。)

とにかく、パウロはエフェソの兄弟姉妹にこの手紙を書いているのは、救われている喜びを思い起こしてもらうためである。以前に彼らが置かれていた状態と今の状態を比較したいのである。つまりBeforeとAfterの話をしている。

Beforeは本当に悲惨な状況だった。今日の箇所のちょっと前を読むと:
皆さん、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。この世を支配する[悪の力、神に反抗することをそそのかす悪の霊]に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。わたしたちも皆...以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。」(エフェソ2:1-3)

生々しい言葉になっているけれど、実はごく日常的なことを話している。神のことや周りの人のことも考えず、自分のことばかりを考える、自己本位的な生活をする人たちの話である。都合のいいうそをついたり、ささいなことへのしっとに満ちた心を持ったりする。つまらないことで怒り出す。また、結果をあまり考えずに、とりあえず欲しいものを手に入れる人。自分が満足すればいいと思う人。

つまり、あなたたちは神がいないかのように生きる、神に対して、神が造ってくださった世界や他人に対して何の責任も持たないメンタリティーを持っていた、とパウロが言っているわけ。しかも、それが当たり前のことだと思っていたわけ。

でもそういう生き方は最終的にむなしいということを悟っただろう、と言っている。自分のために生きる人はすでに死んでいる人。欲を満たしても、時たま満足感を味わっても、あまり中身のない楽しみがあっても、真の喜びも平和もない。天国への望みの持てない。
そのころ[あなたたち]は、キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました(エフェソ2:12)

しかも、自分のために生きる人は、つまり罪深い人間は、神の愛の中に居場所がない、と言っている。神から「遠く離れている」(17節)状態にある。神の国から見ると外人になっている(19節)。神の存在を怒りの存在として感じ取ることしかできない。
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ところが、そういう悲惨な状態にある人のためにこそ、み子イエス・キリストが遣わされたのである。神はご自分を敵対している人間を友達にしたいのである。一人一人の人間は神にとって愛しい存在なのである。

パウロは2章の5-6節にはこう書いている:
神は、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かして...キリスト・イエスによって共に復活させてくださいました。(エフェソ2:5-6)

これこそ洗礼の正体。死んでいた人が復活させられるのである。だから:
「あなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです」(エフェソ2:13)
また:
「十字架[の自己犠牲]を通して、キリストはユダヤ人も異邦人も一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました(=無くした)」(エフェソ2:16)

ユダヤ人でも、異邦人でも、日本人でも、アメリカ人でも、中国人でも、男性でも女性でも、金持ちでも貧しい人でも、洗礼を50年前に受けた人でも、今日受ける人でも、十字架の前でひざまずいたらみんな平等である。上下関係はない。イエスのおかげで:
「一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです」(エフェソ2:18)

大胆に天の父のもとに近づくことができるのである。イエスのおかげでみんなが「聖なる民に属する者、神の家族である」(エフェソ2:19)
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では、このBeforeの状態からAfterの状態に移るにはどうすればいいだろうか。パウロは2章8-9節に:
「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません」(エフェソ2:8-9)
と書いている。

つまり、キリストご自身がわたしたちのために成し遂げてくださったことをただ受け入れるだけである。すごく頑張れば、悪い癖を直せば、心の疑問をすべて撃ち殺せば――そういう話ではなしに、「恵みにより、信仰によって救われる」のである。

「実に、キリストはわたしたちの平和であります」(エフェソ2:14)
ここに出て来る「平和」はシャロムというヘブライ語に当たる(ギリシャ語はエイレネ)。「争いのない状態」という意味ではない。喜びに満ちた、揺るぎない心の安らぎのある、欠けるところのない、完全の幸福の状態を表すとても奥深い言葉である。

神が望んでいらっしゃるシャロムは、キリストのうちにある。キリスト以外にどこにもない。キリストのうちに差し伸べられている。それをただいただければいいわけ。

さて、わが平和であるキリストをいただいた、洗礼によってキリストと結ばれた人たちはどう生きればいいのか。わたしたちは一つの本家になる、大きな大きな長屋に暮らす神の家族なので、その家族のメンバーとしてどういうふうにやっていけばいいだろう。

まず、その本家の土台は聖書のみ言葉であることを常に心に留めておくべきだろう。
「使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエスご自身である」(エフェソ2:20)。

つまり、新約聖書(=使徒)と旧約聖書(預言者)全体が、神の生きたみ言葉としてわたしたちの生活の道しるべ、生きる基準となるのである。み言葉にに慣れ親しもう。

そして、古い自分、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていた自分を死なせて、新しい自分、キリストと親しく歩む自分を迎えていくのである。

古い自分を死なせて、新しい自分を迎える。これは洗礼式で決定的に起こることではあるが、その後、日に日に自分で、そして毎週毎週この聖なる食卓を共に囲む人たちとして、仲間として、家族として繰り返して、どんどん深めていくことでもある。

実に、キリストはわたしたちの平和である。神がいないかのように生活をするのではなく、キリストにある平和と祝福と豊かな命を味わいながら共に生きようではないか。

2012年7月11日水曜日

the end of the world: an email exchange


I received the following email from a friend, a young Japanese woman who is a new Christian. She wrote in English. I have changed all names except mine and edited her email to take out information that might help identify her.


From: keiko tanaka
To: kevin seaver
Date: 2012/7/11, Wed 01:55
Subject: Ultimate question

Hi Kevin

I've been thinking the end of the world lately. It has been always on my mind.

And I just had a interesting conversation with my close friend, Joanne. She was told once that she could have sight, visions, and she told me about her dreams about the end of the world over and over.

I used to have a dream about it too. But not like hers. Not that detailed. But was about the end of world. That it will happen.

Lots of people were saying that December 21, 2012 will be the end. What is your honest opinion about that as a servant of God?

I personally wish it will come soon. So that we don't have to suffer any longer and the kingdom will come soon for the younger people and for all of us.

Like I told you I had a kind of crisis a little while ago. During that time, I went through very strange period. I had visions about the end of the world. Exactly like it was said in the Bible, in Revelation...I just wonder if I experienced this because I knew what was written or if it was a real vision.

Your honest opinion will be highly appreciated. 

Love and Peace,
Always your younger sister,
May God always be with you,
Keiko xoxoxoxo
+  +  +
From: kevin seaver
To: keiko tanaka
Date: 2012/7/11, Wed 10:57
Subject: Re: Ultimate question

Hi Keiko,

In Matthew 24, Jesus talks about the end of the world. And then he says: "But about that day or hour no one knows, not even the angels in heaven, nor the Son, but only the Father" (Matthew 24:26). Not even Jesus himself knew.

Again, before he ascended to heaven, Jesus said to his followers: "It is not for you to know the times or dates the Father has set by his own authority." (Acts 1:7)

It is good to think about the fact that there is an ending to the story of this world, that human history will not go on for ever and ever. And it is good to think about the fact that it is a VERY happy ending because God's will finally will be done on earth as in heaven.

And, like you, I long for Jesus to return soon, so that all the cruelty and suffering of the world would be over and I would stop having to struggle against temptations.

But it is pointless and maybe a little presumptuous (厚かましい) to try to know the day and hour of the end. If even the Bible doesn't tell us when, we certainly shouldn't pay attention to ancient Mayan calendars or modern day "prophets" who claim to know more than God has allowed us to know.

Not even Jesus knew when the end of the world would happen. He didn't need to know. Neither do we. All we have to do is to live our lives each day so that when the end comes, we will be ready to greet our Lord with joy and thanksgiving.

Because we know, we have been promised, that when the end comes, those who have believed that Jesus died and rose again, those who have entrusted their lives to the mercy and grace of God, "will be with the Lord forever" (1 Thessalonians 4:17). We have hope, because we know Jesus, and Jesus has shown us the heart of the Father, who is the Author of History, in command of all things.

C.S. Lewis, who wrote the Narnia books, was once asked what he would do if he knew the world would end tomorrow. He said: "I would plant a tree." All the "trees" we plant in this life--all the little acts of kindness, mercy and love that we show, all the beauty we help create, all the prayers we raise up to heaven for people in need, all the temptations we resist for God's sake--all of this will have a place in the new creation. Nothing good will be lost.

So, I think you and I should live our lives so that, if the end comes tomorrow, we will be ready. But we should really LIVE our lives--"I came so that they would have life, and have it abundantly," Jesus said (John 10:10). God wants us to enjoy life, enjoy Him, enjoy our fellowship with His Son, enjoy our fellowship with each other.

If your visions or thoughts about the end of the world rob you of this joy, that might be a sign that they are not "of God." Christians of all people ought to live lives radiant with joy and thanksgiving and hope. Because we know! We have been promised eternal life. And "in keeping with his promise we are looking forward to a new heaven and a new earth, where righteousness dwells. So then, dear friends, since you are looking forward to this, make every effort to be found spotless, blameless and at peace with him" (2 Peter 3:13-14).

Go well, my friend.

Peace with Him,
Kevin

2012年7月8日日曜日

まだまだこれから(マルコ6:1-6)

聖霊降臨後第6主日(B年)
聖路加国際病院聖ルカ礼拝堂
2012年7月8日・10時30分 聖餐式


今日のマルコの福音書では、「イエスは人々の不信仰に驚かれた」と書いてあります(マルコ6:6)。イエスはわたしたちの信仰をどう思われるのだろう、とちょっと気になります!

この話の流れを把握したいと思います。イエス・キリストは、人類を悪の束縛から救い出すために神によって遣わされました。そこまではいいですか?世の中を見ると、「こうなるはずではなかった!!神様はどうにかしてくれないか、」と言いたいことに対して、神は「どうにか」してくださったのです。その「どうにか」はイエス・キリストです。

イエスがお生まれになる前からも、彼の使命が明らかになっていました。天使ガブリエルはマリアにもヨセフにも言いました:「この子の名前をイエスにしなさい」(ルカ1:31、マタイ1:21)。その名前自体が「神は救いなり」もしくは「神は癒しなり」という意味になっています。両方はあっています:神はわたしたちの魂だけではなくて体をも大切にしてくださるのです。

み子のミッションは神の救い・癒しとなることでした。しかもみ子が人間の世界来られたとき、人間として来られました。100%人間として。み子としての力と地位を全部捨てたのです:「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた」とパウロ(Ⅱコリント8:9)。

イエスはわたしたちと同じく完全に人間でした。ただ、わたしたちと違ってイエスは天の父とのつながりが途切れていなかったのです。神とのつながりを切ったり、妨げたりするのは罪なので、罪と何の関わりもないイエスは常に神の愛を直感し、神のみ心を行うことを喜びとされたのです。

ほかすべての点では、イエスは普通の人でした。1世紀のパレスチナのユダヤ人として、その義父ヨセフから大工の仕事を覚えられました。イエスの育ちについて殆ど記録がありません。数百人の村落であったナザレに普通に住んで、その地方の工事現場で普通に働かれたわけです。

ところが30歳のころ、イエスはそのいとこヨハネのもとで洗礼を受けに出掛けられます。洗礼のとき、イエスは聖霊に満たされて、「わたしの愛する子」と天からの声が聞こえる、と聖書が教えてくれます(マルコ1:11)。

ここからですね。イエスは子供のときから天の父の愛を感じ、特別なミッションが与えられていることもご存知です。だけどついに、そのミッションを遂行する力を授かるのです。

イエスの力の源泉は聖霊なのです。神の子であることではありません。そういうことを一切捨てられたのです:「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました」(フィリピ2:6-7)。だから家畜小屋で、小さくて弱い赤ちゃんとしてイエスがこの世に来られました。そして30年間にわたり、人とほぼ変わらない生活を送られるわけです。

そしてついに、普通の人として聖霊に満たされて、やっと仕事に取り掛かれるのです。

イエスは洗礼を受けてから故郷のナザレに戻られます。地元の人たちに早く福音を伝えたいでしょう。マルコの福音書はイエスの行動を強調しますが、ルカの福音書ではそのナザレの会堂でイエスが何を話しておられたか、記録しています。彼はイザヤ書を引用なさるのです:
「神の霊がわたしの上におられる。貧しい人に良い知らせを告げるために、主がわたしをお選びになった。主がわたしを遣わされたのは、束縛されている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げるためである。圧迫されている人を自由にして、今年こそ神が動き出す年だということを宣言するためである。」(ルカ4:18-19)

つまり、イエスが地元の人たちに仰っているのは:400年前に預言されたことは今、起こっている。神は動き出しておられる!大規模な救出作戦が始まってる。この世を支配している暗闇の力から虜となっている人間をこれからどんどん自由にしていくのだ、と。神の国が前進して、暗闇の国が追い払われていくのだ、と。

そしてこられのことの中心は、このわたしなのだ、と。

そしてそこで集まっている人は、はっ?と思うわけです。何言ってんの?何様だと思ってんの?あの大工のお兄さんだろう?!親戚みんな知ってるし...

「このように、人々はイエスにつまずいた」(マルコ6:2-3)。

つまり、どうしてド田舎の小さな村であるこのナザレ出身の人が救い主であり得るのか、ということでした。「なれなれしさは軽蔑を生む。」イエスのことをよく知っているので、別に特別な人ではないのだ、と。

しかも、20年以上ナザレに住みながら、一度も人を癒したり、奇跡を行ったりすることはない。自分が「救い主だ」と言ったこともない。
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これまで一度もありませんでした。いつもこんなふうなんです。同じような話は、教会でも耳にすることができます、たまには(笑)。

僕はクリスチャンファミリーに生れましたが高校生の頃、信仰から離れました。キリストに立ち帰ったときに一つ気づかされたのは、神やイエス・キリストのこと、教会のことを全部知ってるつもりだったけれども、実はそうではなかった、ということです。最初からやり直して、素朴な質問を聞き直して、学び直すことは本当に多かったです。今も学んでいる最中です。

そしてもう一つ気づかされたのは、神はもしかしたら新しい、予想外のこともなさる可能性がある、ということでした。「これまで一度もない」ことにとらわれてはいけないのです。結局、僕の人生においても、神は予想外のことをなさるかもしれない――実際になさろうとしていらっしゃる――ということを受け入れなければならないことに気づかされたのです。

周りに座っている人をご覧なさい。知っている人はいますか?「だいぶ変わっている人」というわけではないと思います。まあ、何人かへんてこりんがいるかも知れないけれども(笑)。でも、ここにいらっしゃる殆どの人はごく普通の人だと思います。

今日、ここに集まっている人たちを通して、神は新しい、予想外のことをなさる可能性があると思いますか。自分自身を通して、神は新しい、予想外のことをなさる可能性があると思いますか。
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イエスの人生が急に展開したのは、彼が聖霊に満たされて、力づけられたときです。

これはイエスに留まることではありませんでした。来週の聖書日課でも、イエスが十二人の弟子たちを派遣する場面が出てきます。ご自分と全く同じことをさせるのです。すなわち、み国の良い知らせを告げ、病人を癒すなど人々を暗闇の力から解放すること。「十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした」(マルコ6:12-13)

こうやって神の国が前進して、暗闇の国が追い払われていくのです。

しかも十二人だけでもありません。後に、イエスは72人のごく普通の弟子たちを派遣されます。その名前さえ知られていないのです。そのミッションは?良い知らせを告げて、病人を癒す。

そして聖霊降臨の後も、このミッションが続くわけです。まずペテロとヨハネ、そしてフィリポ、そしてアナニア、そしてパウロなどなど、イエスに従う人たちが地の果てまで広がりながら常に二つのことに励んでいきます。み国の良い知らせ、すなわち、神が暗闇の力の虜になっている人を救い出すために動き出しておられるという良い知らせを告げることと、その言っていることを行動で証明して、人の癒しと解放のために祈っていくこと。これだけです。

3世紀初頭の教会リーダーであるテルトゥリアヌスは、すべてのクリスチャンにイエスの働きを受け継ぎなさいと促しました:最もえらい生き方は「悪の力に立ち向かって、人の癒しを祈り、神のために生きることなのである」と訴えたのです。

(こういう生き方は劇や競技場の試合を見に行くよりも楽しいのだ、とテルトゥリアヌスは言っていました[『見世物について』29章]。僕は、人の癒しのために祈ることは、オリンピックより楽しいよ!と言ったら、信じてもらえるかしら...)
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神の国が前進して、暗闇の国が追い払われていくことを明らかに示すために、イエスは癒しと悪霊払いの働きに専念されたのです。言葉だけではなくて行動で証明されたのです。そしてイエスの働きを通して、多くの人々の人生が変わりました。その弟子たちの働きを通しても、多くの人々の人生が変わりました。

いずれもその力の源泉は同じ聖霊でした。イエスの従っていくために、イエスが聖霊に満たされていたと同じようにわたしたちも聖霊に満たされなければならないわけです。

わたしたちは、2つの意味で聖霊を必要としています。まず聖霊の力によって、わたしたち自身が変えられなければならないのです。「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」(ガラテヤ5:22-23)聖霊がわたしたちの心に取り掛かり、わたしたちをもっとイエスのような人に変えてくださいます。相当時間がかかりますが、もっと潤いのある心、もっと神の喜びと平和に開かれた心を与えてくださるのです。

でももう一つは、人を助けることができるために聖霊がいります。助けを必要としている人々のために大胆に祈る勇気を聖霊が与えてくださいます。道に迷っている人々を守り導くための知恵を聖霊が与えてくださいます。不安や困難の中にある人々を支えて励ますための愛を聖霊が与えてくださるのです。

聖霊の助けがなくても、人に優しく関わることができます。しかし聖霊の助けがあったら、わたしたちの祈りによって人が癒されたり、その人生が変わったりします。そこが違います。

もしかしたら、最も聖霊を必要としているのは、神のご計画に目と心を開いてもらうためなのかも知れません。このチャペルコミュニティを通して、わたしたちを通して、あなたを通して、僕を通して、神は予想外のこと、全く新しいことをなさることがおできになるのです。

聖霊よおいでください。わたしたちが口で言っていることを心から信じるようにさせてください:
「わたしたちのうちに働く力によって、わたしたちが求めまた思うところの一切を、
はるかに越えてかなえてくださることができる方に、教会により、またキリスト・
イエスによって、栄光が世々に限りなくありますように  アーメン」
(エペソ 3:20-21、聖餐式の「感謝聖別」の終わり)

you ain't seen nothing yet (Mark 6:1-6)


Sixth Sunday After Pentecost (Year B)
St. Luke's International Hospital Chapel
July 8, 2012– 10:30 a.m. Holy Eucharist


We read in Mark's Gospel this morning: "Jesus was amazed at their lack of faith" (Mark 6:6). I wonder what Jesus would think about our faith…

Let's take a minute to get the big picture of what's going on here. Jesus was sent by God to save mankind from the bondage of evil. Are you with me so far? Look around, the world isn't supposed to be like this. Won't God do something about it? He has, and that "something" is Jesus.

Even before Jesus was born, his mission was clear. The angel Gabriel told both Mary and Joseph: "You are to call the child 'Jesus'" (Luke 1:31; Matthew 1:21). His name means "God saves" or "God heals"—the original word has both meanings. And both are true: God is interested in our bodies as much as our souls.

So that's the mission assigned to the Son of God. But when the Son came into the world, He came as a man, 100% human. He gave up all power and privilege as the Son— "though he was rich, yet for your sake he became poor" (2 Corinthians 8:9).

So Jesus was fully human, like you and me. Although unlike us, He enjoyed unbroken communion with the heavenly Father. Sin breaks or blocks the connection between us and God, but Jesus was without sin. So He lived always knowing the love of God, always taking delight in doing the will of God.

In all other respects, though, He was pretty much a normal guy. A 1st century Palestinian Jew who learned carpentry from his step-father, Joseph. That's why we hear almost nothing about Jesus' life growing up. He lived a normal life in Nazareth, a town of maybe a few hundred people, and worked construction in the area.

But then, at around age 30, Jesus goes off to be baptized by his cousin, John the Baptist. At his baptism, we read that Jesus is filled with the Holy Spirit, and hears a voice from heaven saying to him: "You are my Son, my beloved" (Mark 1:11).

This is where things really kick off. Jesus has always known the Father's love, always known He had a mission to do in the world. But at last, He has the POWER to do it.

The Holy Spirit is the source of Jesus' power. NOT his special status as the Son of God. He put all that aside: "Though he was in the form of God, Christ did not count equality with God a thing to be grasped, but emptied himself, by taking the form of a servant, being born in the likeness of men" (Phil 2:6-7). So Jesus came into the world as a tiny baby born in a stable. For the first 30 years of His life, Jesus never performed any healings or other miracles. He was a normal guy.

But now, as a normal guy, He is filled with the Holy Spirit. So now He can get to work.

Jesus goes back to His hometown, Nazareth. He's probably eager to share the good news with the people He grew up with. Mark's Gospel is heavy on the action, but Luke reports what Jesus said in his hometown synagogue. He reads from the Book of Isaiah:
"God's Spirit is on me. He's chosen me to proclaim good news to the poor. He sent me to announce freedom for prisoners and recovery of sight for the blind. He sent me to set the oppressed free. To announce 'This is God's year to act!'" (Luke 4:18-19)

Jesus tells His fellow Nazarenes: What Isaiah said 400 years ago is happening NOW. God is on the move. God has launched His big rescue operation, to free us from our enslavement to the powers that control this world. God's Kingdom is advancing, the kingdom of darkness is receding.

And all of this is starting with Yours Truly.

And they're all like, huh? What is he TALKING about? Where does he get off talking that way? He's just a construction worker! We know his family!

"And they took offense at him" (Mark 6:2-3).

The people of Nazareth can't imagine that someone who grew up in their little hamlet could be the promised Savior. Familiarity breeds contempt. They know Jesus too well; He can't be special.

Besides, for more than 20 years Jesus lived in Nazareth and never did miracles before. He never claimed to be the Savior before.
+   +   +
It's never happened before. It's always been this way. These are phrases one often hears in church.

I grew up in a Christian family but left the faith in high school. When I came back to Christ, one thing I was forced to realize was that, although I thought I already knew all about God and Jesus and Christianity, in fact, I didn't. I had to start from the beginning and reask the basic questions, relearn so many things. I'm still learning.

And I had to open my mind to the possibility that God could do new and unexpected things. Eventually I had to open my mind to the possibility that God wanted to do new and unexpected things IN MY LIFE.

Look around you. Do you know anybody here? We're a fairly normal lot, don't you think? A few of us are a bit strange, but…all and all, plain vanilla.

Do you think God is capable of doing something new and unexpected through the people gathered here today?

Do you think God is capable of doing something new and unexpected through you?
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What changed in Jesus' life was that He was filled and empowered by the Holy Spirit.

But it was never only about Jesus. Next week, we'll read about Jesus sending out the Twelve Disciples to do exactly the same thing that He's doing: proclaim the good news of the Kingdom, and heal the sick and deliver people from evil powers:
"They went out and preached that people should repent. They drove out many demons and anointed many sick people with oil and healed them" (Mark 6:12-13).

In this way, God's Kingdom advances, and the kingdom of darkness recedes.

And it's not just the Twelve, either. Later, Jesus sends out Seventy Two plain vanilla disciples—we don't even know their names: Proclaim the good news and heal the sick.

And after Pentecost, the mission continues. First Peter and John, then Philip, then Annanias, then Paul—and on and on, Jesus' followers go out to the ends of the earth. Always doing two things: Proclaiming the good news of the Kingdom, the good news that God is acting to rescue mankind from enslavement to evil, and then backing up their proclamation by praying for people to be healed and set free from bondage.

Tertullian, a Church leader of the early 3rd century, urged all Christians to continue in the ministry of Jesus. He said the noblest life is "to exorcise evil spirits—to perform cures—to live to God."

(Tertullian even argued that doing such things was more exciting than going to plays or sports events! (Tertullian, "De Spectaculis," Ch. 29) If I told you that praying for people was more exciting than watching the Olympics, would you believe me?)
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Jesus focused on a ministry of healing and deliverance to clearly show that God's Kingdom was advancing, and the kingdom of darkness was receding. It wasn't just words, it was His words backed up by His actions. Through His ministry, lives were changed. Through the ministry of His followers, lives were changed.

The source of power for Jesus' followers is the same source as for Jesus Himself: the Holy Spirit. If we are to follow Jesus, we need to be filled with the Holy Spirit just as Jesus was.

We need the Holy Spirit for two reasons. First, we need the Holy Spirit to change us. "The fruit of the Spirit is love, joy, peace, forbearance, kindness, goodness, faithfulness, gentleness and self-control" (Galatians 5:22-23). The Holy Spirit works on our hearts to make us more like Jesus, more full of life, more open to God's joy and peace.

But we also need the Holy Spirit so that we can really help people. The Spirit gives us courage to pray boldly for people who are in need, wisdom to give counsel to those who have lost their way, love to encourage those who are anxious or in doubt.

Without the Spirit, we can be kind and supportive. With the Spirit we can see people being healed and lives changed. That's the difference.

But perhaps most of all we need the Spirit to open our eyes and our hearts to the plans God has in store for us. God is capable of doing something new and unexpected through this chapel, through us, through you, through me.

Come, Holy Spirit, and help us to believe in our hearts what we say with our lips:
"Glory to God whose power, working in us, can do infinitely more than we can ask or imagine: Glory to him from generation to generation in the Church, and in Christ Jesus for ever and ever. Amen" (Ephesians 3:20,21, at the end of the Eucharistic Prayer)

2012年7月6日金曜日

two highlights

Highlight 1:
The other day, I met a woman I've known for years, from the time she found out she had breast cancer through to its total remission. There were some signs that the cancer might be back. She was waiting for test results, nervous. "God, may all her results be negative" I prayed with her, even as my mind filled up with all sorts of scenarios. Yesterday, she stopped by my office with great news: "No relapse." We just stood there for a long, long time, grinning like monkeys and shaking hands.

Highlight 2:
For the past six months I've enjoyed getting to know a patient in the palliative care unit, an elder brother in Christ. A Protestant, he loves Mass, and often took part in our Sunday worship, hospital bed and all. He was quietly called to be with the Lord this morning. When I went to say goodbye, the realization that I would no longer regularly be seeing him or his family made me suddenly sad. I went back in the afternoon for the send-off. And, just as if the patient were still alive, the family and nurses and doctors and I all gathered around his bed, laughing and smiling as we took one last photograph. No, not "just as if"--he IS still alive. "Blessed are the dead who die in the Lord from now on.” (Revelation 14:13)

2つの嬉しいこと


数年、乳がん発覚当初からその完全寛解まで時々会って話を聞いている女性に先日またお会いした。またか?と疑われる要素が出てきてしまって、検査結果待ちで不安。「どうか、姉妹の結果がすべて陰性でありますように」と、いろいろな思いが駆け巡っている中で祈ってあげた。そして昨日、僕のオフィスに寄って来て「再発してない」という吉報をもたらしてくれた。二人の収まらない笑顔と長い、長い握手。


半年知り合っている緩和ケア患者さんで、キリストにあって大先輩。教派は違うけどミサが好きで、よくベッドごとで日曜礼拝に参加してくれた。今朝、穏やかに天に召された彼とのお別れに伺うと、ご本人とも、ご家族とも、今までのようには頻繁に会えないな、と思いがけない寂しさを感じる。だが午後、病棟からの見送りに立会うと、亡き患者さんがまだ生きているかのように、ご家族もナースもドクターもチャプレンも病床を囲んで笑いのあふれる記念撮影を。いや、「かのように」ではない。今も生きているのだから。『今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである』(黙示録14:13)